最終話は、夏と、海と水季と三人での暮らしのシーンから始まった。具体的に想像ができなかった光景が新鮮で優しくて、夢を見ているような奇跡な場面で目が離せなかった。
やっぱり日々の暮らしなんだよね。大事なことがたくさん詰まってる。
いるだけで安心感が生まれる。
これまでは、在りし日の水季(古川琴音)と海(泉谷星奈)の回想シーンで始まるのが定石だったが、最終エピソードとなる第12話では、夏(目黒蓮)、水季、海が三人で仲睦まじく朝を迎えている様子が描かれる。ひょっとしたらあり得たかもしれない、もう一つの世界線。
おそらく、二人だけの新生活を頑張ろうとする夏の振る舞いに、「ママがいない人になっている」と海がショックを受ける前回のエピソードを踏まえたオープニングなのだろう。いきなり心を掴まれてしまう幕開けだ。
(以下、ドラマのネタバレを含みます)
物語は、リスタートを切った夏と海の二人の生活を丁寧に描いていく。そんな父娘を、夏の母・ゆき子(西田尚美)や、水季の母・朱音(大竹しのぶ)は優しく気遣い、明日への英気を養ってもらおうと、ご飯をつくる。そう、今回のエピソードで印象的なのは、とにかくご飯を食べるシーンが非常に多いことだ。 キャラクターが会話をする設定として食卓を囲むのではなく、食事そのものが人間の営みにとって一番大切なのだ、と言わんばかりの演出。最終回であっても、『海のはじまり』はカタルシスを発動させるためだけの展開には舵を切らない。日々の生活を丹念に抽出し、丁寧に描くことで、ドラマとしての強度を高めている。
「始まりは曖昧で、終わりはきっとない」
水季もまた、海の「選択」を夏に託していた。このドラマは、夏の「選択」のドラマであると同時に、海の「選択」を見守るドラマでもあったのだ。そして手紙は、こんな風に結ばれる。 「海はどこから始まっているか知っていますか?(中略)始まりは曖昧で、終わりはきっとない。今まで夏くんが、いつからか海のパパになっていて、今そこにいない私は、いなくなっても海のママです。父親らしいことなんてできなくていいよ。ただ、一緒にいて。いつかいなくなっても、一緒にいたことが幸せだったと思えるように」 筆者は、間違っていた。このドラマは、主人公がどのように娘と向き合い、どのように父親としての自覚をもち、どのように二人で暮らしていくかを、“はっきり”と、“明確”に「選択」させる作品だと思い込んでいた。「選択」に受動的だった夏が能動的になることで、彼の成長を分かりやすく明示する作品だと思い込んでいた。 だが実際には、ゆっくりと時間をかけて海と向き合い、さまざまな感情のグラデーションのなかで熟考を重ね、気がつけば父親になっていく物語だった。「選択」は本作の重要なモチーフだが、それ自体がドラマをドラマティックに高揚させるトリガーではない。 このドラマは、ご都合主義的なストーリーに流されることなく、どこまでもキャラクターの心情に寄り添っていく。「選択」というテーマすらも、カタルシスの道具に利用しない。その誠実さ、その真摯さが、『海のはじまり』というドラマを特別なものにせしめている。
引用記事:
『海のはじまり』最終話 水季からの手紙、そして海と一緒に生きていく夏の「選択」(エンタメNEXT) - Yahoo!ニュース