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西城秀樹「病気と戦う人を勇気づけられたら」そして、誰も秀樹に失望なんてしなかった

西城秀樹さんをご存じではない若い方たちもいらっしゃるかと。

闘病中でさえも、前向きなチャレンジャーでしたようで、本当にとても素敵な方でした。

なかなかいませんよ、彼こそ永遠のスター。

 

 

 西城秀樹脳梗塞がマスコミに発表されたのは、2003年が最初だったが、実際には2001年秋、1度目の脳梗塞を宣告されている。ふらつき、しゃべりにくさを訴え、自宅から近い聖マリアンナ医科大学病院に行ったところ、病名を言い渡され、すぐに緊急入院。ただ、このときは1週間ほどの点滴で調子が戻ったという。仕事の影響などを鑑み、マスコミには「二次性多血症」と発表されたのだった。

 

1978年6月、日本武道館で行われた東京音楽祭世界大会で熱唱する西城秀樹 ©時事通信社© 文春オンライン

「二度の脳梗塞には感謝している」

 その2年後の2003年に脳梗塞が起こり、少し間が空き、2011年12月20日クリスマスディナーショーのリハーサルで具合が悪くなり入院。やはり脳梗塞だった。この時の症状は重く、右半身に麻痺がおこり、マスコミにはこれが「2度目の脳梗塞」と発表されたが、小さな梗塞を入れると計8回発症していたそうだ。

 原因について、西城秀樹は様々なインタビューで自身の行動を振り返っている。2016年12月号「文藝春秋」の大型企画「大逆転の人生劇場」に「二度の脳梗塞には感謝している」というタイトルで寄稿。

 そこには「最高に健康な男だと過信していました」という一文がある。まさに、彼のデビューのキャッチフレーズは「ワイルドな17才」。ステージ上を所狭しと動き、激しい情熱を思わせる歌唱で人気を博した。野球場での単独コンサートをはじめたのも、彼が最初である。広い球場を走り回り、踊り、ゴンドラに乗る、高所から飛び降りるなどの空前絶後な演出の連続に、ファンたちは湧いた。

 そのパフォーマンスはエネルギーとパッションの塊のようで、彼自身だけでなく、世間でも彼のイメージは間違いなく「人一倍元気と勇気を持つスター」だった。

 ただ、私生活の体調管理はなかなか極端だったようで、若い頃からワインを毎晩2本、タバコを1日4箱。181センチ、68キロというベスト体型を維持するため、3週間で5キロの無茶なダイエットを頻繁に行ったという。

 ボクサーのようなハードなトレーニングを課し、「やればやるほど減量の数値が下がる快感を抑えられず」運動のあとのサウナを繰り返し、体中の水分を絞り出した。

〈「水分補給をしないほうが効果があると勘違いもしていた。そんなことが、血流を滞らせる原因になったんですね」(前出の「文藝春秋」)〉

 水不足は大きなトラウマになり水を大量に飲むくせがついた。美紀夫人の『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』(2018年、小学館)には、2017年には、水を飲みすぎて、血中のナトリウムの濃度が極端に低くなる「水中毒(低ナトリウム血症状態)」に陥ったことも書かれている。

 それでも、「あきらめない」を合言葉に、西城秀樹は模索し続けた。当時の主治医、鈴木則宏氏は、美紀夫人の同著にて、

「西城さんは常に前を向いていらっしゃいました。(中略)何をしたらよくなるのか、どんなトレーニングをしたらいいのか、毎回、熱心に質問される。治る手立てがあるなら、と全力で努力されていました」

 と回想している。

 同じ病気の人の参考になればと、自身の体験の共有も積極的に行った。日本脳卒中協会の市民講座などで講演も引き受けていたという。

目標になった「YOUNG MAN」

 3度目の脳梗塞(2011年末)の際は、具合が悪くなり慶應病院へ行ってMRIを撮り、念のため入院したが、次の朝には、病室のベッドから起き上がれなくなっていた。

〈「ショックは何十倍でしたよ。再発を予防しようと生活に気をつけていただけに、なぜ?」(前出の「文藝春秋」)〉

 12月30日に慶應病院を退院。リハビリのために杉並区の河北リハビリテーション病院に1か月たらずを過ごした。

 壮絶なリハビリを課し、このときも彼は驚異の復帰を果たした。そして2012年の1月28日、退院してすぐにチャリティーコンサートに出演。2月28日には熊本競輪場で開催された「第65回日本選手権競輪」開会式で、国歌独唱を行っている。

 そしてこの年の夏、9月にはなんと、熱烈な招待を受け、ブラジルのサンパウロに赴きドリームコンサートに出演。ヒット曲10曲を熱唱し、会場とともに歌い、日系人のファン4000人を熱狂させている。そのセットリストのなかには、しばらく、上半身が不安定で歌えなかった「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」もしっかり入っていた。

「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」」といえば、西城秀樹自身の代名詞になるほどのヒット曲。「ザ・ベストテン」(TBS系)では、史上初の満点、9999点(1979年4月5日放送回)を獲得しており、いかに万人に愛されていた楽曲かということがわかる。

 原曲は、アメリカ出身の人気グループ、ヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」。カバーのきっかけは、西城秀樹自身がロサンゼルスに滞在した際に気に入り、コンサートのアンコールで歌うことを決めたことだった。原曲で歌うはずが、急遽、日本語の詞を付けることになり、当時のマネージャー天下井隆二が1時間で書いた(クレジット表記は平仮名の“あまがいりゅうじ”)という驚きのエピソードがある。

「みんなで歌って踊れる歌にしよう」というコンセプトのもと、体で文字をかたどり、客席との掛け合いを入れた。これはヴィレッジ・ピープルの原曲にはない、西城秀樹のオリジナル。

 最初振り付け師の一の宮はじめがつけた「Y・M・C・A」の「A」は、本来、両手を頭の上で合わせたあと、腕を左右に開く、という振り付けだった。それを西城秀樹はあえて、腕を曲げて揺らすように変えていったという。

 天下井隆二は当時をこう回想している。

〈「(秀樹に)理由を聞いたら『みんなが客席でやったら、隣の人に腕がぶつかるでしょ』と言う。私も長年、彼と一緒に過ごしましたが、ファンのことをそこまで考えているのかと驚きました」(「週刊現代」2019年9月14日・21日合併号)〉

 彼の想い通り、ファンと一体化できる、最高のパワーソングに成長していった「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」。わかりやすい、覚えやすい、明るい、楽しい、全身を使う振り付けがある。西城秀樹によって誰にも愛される歌に進化したこの歌は、今も高齢者施設のレクリエーションや、リハビリでおおいに活用されている。

 そして、彼自身の最大の目標にもなっていた。

 きついリハビリを耐える理由を聞かれた時、「ファンのためにがんばりたい。YMCAをちゃんと歌いたい!」という言葉が決まり文句だったという。

 “ちゃんと”というところに、彼のこだわりとプライドが詰まっている。

闘病を公開した理由

 ただ、「YOUNG MAN」の印象が強かった西城秀樹の闘病の公開は、これまで見ていた「かっこよさ」とのギャップから、当然のことながら、見るのがつらいというファンもいた。それでも、西城秀樹が自分の姿を出そうとした理由は、「脳梗塞やほかの病気と戦う人を勇気づけられたら」だったという。

 初期こそ、彼自身「こんな姿は誰にも見せたくない。西城秀樹はカッコよくあることが務めだ」と、信条が崩せずにいたという。それが徐々に気持ちが変わっていく。

 特に、他の患者とともに過ごすことを余儀なくされるリハビリ室での時間は、前向きになるきっかけになった。ともにリハビリに励む人たちの頑張りや、実際に症状を好転させていく様子が、自分にとってもいい目標になったという。

 そして、ありのままを見せていく。弱みも見せる。そんな風に変化していった西城秀樹

〈「最初に脳梗塞で倒れるまでが一度目。また倒れるまでが二度目。そしていまは、三度目の人生だと思っています。価値観を変え、大切なものに気づかせてくれたという意味で、ぼくは病気に感謝してるんです。病気にならずに気がつけば、もっとよかったんですけどね(笑)」(前出の「文藝春秋」)〉

 歌への気持ちもまた、深いものになっていった。

「歌がへただろうが、脚がよろけようが、僕にはもう一度歌いたい歌がある。伝えたい言葉がある」(『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』2012年、廣済堂出版

コール&レスポンス

 西城秀樹が病との闘いを共有しようとした背景には、自らが広めていった「ファンとの掛け合い」「コール&レスポンス」の精神が沁みついているのもあったのだろう。彼はいつもファンのことが頭にあった。ファンに対して、ひとりひとりに愛を囁いているように歌い、雑誌の取材ではファンを「姉であり妹であり恋人」と語った。

 ファンにその思いが伝わらないわけはなかった。コンサートは脳梗塞のあとも行われたが、当然、調子の悪い日もある。しかし、常に声援で包まれた。かつて現場で、西城秀樹と接していた元運営スタッフは、こう振り返っている。

〈「音楽業界ではよく知られていることなんですけど、秀樹さんのファンは熱いんです。秀樹さんへの思いがとても強い。だから、必死にステージを務めようとしている秀樹さんのアクションがぎこちなかろうが、誰も失望なんてしなかった」(「デイリー新潮」2019年5月15日)。〉

 

 

引用記事:

西城秀樹は3回目の脳梗塞に「ショックは何十倍でしたよ」…ベスト体重を維持するための“過酷すぎるダイエット”とは