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中山美穂「根暗で無口」な少女がスターになった日

 中山美穂が亡くなって10日余りが過ぎた。12日には葬儀が終わったが、故人を悼む声は未だに止まない。俳優、歌手として頂点を極めた中山。そのキャリアの原点となったのは、1985年のドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系列)だった。ドラマデビューとなったこの作品でツッパリ少女・のどかを演じた彼女は、そのルックスと演技に注目が集まり、以後、一気にスターダムへと駆け上がることになったのである。当時、所属事務所でマネージャーを務めていた岡嶋康博氏が、中山との思い出を語った。

中山が芸能界入りしたのは1982年。当初はモデル活動などをしていたが、ドラマデビューとなったのが14歳、中学3年生の時に出演した「毎度おさわがせします」である。中山の所属事務所は「ビッグアップル」。彼女のために山中則男氏が設立。岡嶋氏はその創業メンバーの1人でもあった。岡嶋氏が回想する。

「美穂と初めて会ったのは喫茶店でした。私と社長の山中さん、そして美穂の3人です。美穂はどちらかと言えば無口で、その時も多くは語りませんでしたが、他の子とは明らかに違うところがありました」

 それは、「彼女の“目”です。野性的で切れ長。今までのアイドルは“可愛い”ルックスでしたが、美穂は、猫目でシャープな、野性味あふれる印象でした。新しい次元の“可愛さ”だったと思います。これが彼女の人気が出た理由でしょう」

 こうしてわずか3人で事務所がスタートした。その最初の大仕事が「毎度おさわがせします」だったわけだ。

「なるほど! ザ ワールド」を逆転

「このドラマ出演は、山中さんがオーディションに連れて行き、勝ち取ったものです。実は美穂が演じた『のどか』という役は、内々に別の女の子に決まっていました。しかし、プロデューサーや脚本家はどうも納得していなかったようです。そんな時に美穂が来た。見た途端に“この子だ”とすぐに決めてくれました。ドラマに出ること自体すごいことですし、まして新人ですから、普通はエキストラに毛が生えた程度の役しか回ってこない。しかし、美穂は最初から主役級の大役を任されたわけです」

 ドラマは、不良少年、少女を抱える3つの家族の物語だった。中山の父役は板東英二、母役は夏木マリが務めた。

「当時、反抗する子どもが社会問題化しており、ドラマのような現実がたくさんありました。だから若い世代には受け入れられやすかったのかもしれません。しかも、美穂の目、ツッパリ風のルックスが、役によく合っていました」

毎度おさわがせします」の放送は火曜日の21時から。その前の20時台はドラマ「少女に何が起こったか」が放映されていた。

「当時、既にスーパースターになっていたキョンキョンが主役です。視聴率も良く、その影響からか、続けて見てくれる人が多かった。ただ、同じ時間帯にフジで『なるほど! ザ ワールド』が放送されていました。各局、どんな番組をぶつけても勝てなかった化け物番組です。しかし、最初は当然、フジが勝っていたんですが、2回、3回と続くに連れ、どんどん視聴率が迫っていき、ついに最後には逆転してしまったんですよ」

「絶対にスターにするから」

 怪物番組に視聴率で迫り、街には主題歌のC-C-BRomanticが止まらない」が流れる。驚きの快進撃であるが、このドラマのテーマは「思春期の性」。刺激的なセリフやシャワーシーン、下着のシーンも多く、大人たちは眉を顰めた。

「どんどん注目が集まるに連れ、全国のPTAからTBSに苦情が行くようになり、局は抗議の電話でパンクしてしまったそうです。裏返せば、今までにないドラマだということで、中高生から圧倒的な人気を誇っていたということですが」

 際どいシーンが多いだけに、こんなトラブルもあった。

「ドラマの宣伝のための、電車の中吊り広告の撮影がありました。その撮影で、美穂が胸にバスタオルを巻くショットがあった。しかし、まだ14、15歳の女の子。大勢の大人に囲まれて脱ぎ、際どい写真を撮るというのは緊張を強いられることで、彼女は泣きじゃくってしまったんです。共演していた篠ひろ子さんが“大丈夫よ、しっかりして。これがあなたのスタートだから頑張ってね”と温かい言葉をかけてくれ、それで美穂も頑張れて、何とか撮影を終えることが出来ました」

ドラマでは、親に喧嘩をふっかけるシーンが多々あった。

「荒くれ者の暴力沙汰みたいなことをやるわけです。美穂はそういったことをした経験がないので、当時、大人気だった全日本女子プロレスクラッシュギャルズに教えてもらうことになりました。ドロップキックなどのプロレス技を、目黒にある全女の本社まで習いに行ったんです。すると、すごい数のクラッシュギャルズのファンがいた。1000人くらいはいたんじゃないでしょうか。練習を終えて帰るとき、“今は美穂のことを誰も知らないけど、絶対に有名なスーパースターにするから、頑張っていこう”と言いました。本人も“頑張ります”と言っていましたね」

ジャニーズタレントと長電話

 ドラマには同世代の役者がたくさん出演していた。横山やすしの息子・木村一八ジャニーズ事務所の江端郁世。中でも、

「共演したあるジャニーズ事務所のタレントとは仲良く、毎晩のように電話をしていました。ずっと話し続けるものだから、電話料金がかさんでしまって……。14、15歳の頃ですから、そういうことで疲れを癒やしていたのかもしれません。撮影は朝早くから夜遅くまである。撮影場所の緑山スタジオ(横浜市)から家まで車で送り届ける時は、彼女も疲れ切ってしまって、ずっと眠っていました」

レコ大の誓い

毎度おさわがせします」終了の後、中山は歌手デビューも果たしている。シングル「C」でデビューし、17万枚のヒットとなった。その年は「BE-BOP-HIGHSCHOOL」で映画初出演も果たし、彼女が歌った同名の主題歌もヒットした。暮れのレコード大賞では新人賞にノミネート。最優秀新人賞を争うライバルは、ドラマ「金曜日の妻たちへ」の主題歌「恋におちて」を歌った小林明子や、本田美奈子など強敵ぞろいだった。

「“絶対に獲れる”と言ってくれる関係者もいましたが、私たちは半信半疑でした。本人もわかっていますが、美穂は決して歌が上手いわけではない。街を歩いていても、本田美奈子の歌はよく流れていましたが、美穂の歌はそれほどでもなかった。もともと美穂はネガティブなところがあり、少し根暗です。レコード大賞についても悲観的でした」

 ある日の夕方、もう辺りが暗くなった頃。

「場所は覚えていませんが、移動中だったと思います。私は“絶対に獲ろう、獲らせてみせるから”と本人に声をかけ、“獲りますっていいなさい!”と言った。彼女はそれでも初めこそ自信がなさそうでしたが、最終的に“獲ります”と誓ってくれました」

 大晦日、見事中山は、最優秀新人賞を受賞。史上最年少での快挙を果たし、躍進の一年を締めくくったのである。

サインを送ってくれたら頑張れる

 この1985年は、山口組四代目の竹中正久組長が射殺され、一和会との「山一抗争」が勃発。豊田商事永野一男会長がマスコミの面前で刺殺された。夏には日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落し520人が死亡。秋には阪神タイガースが日本一になるという、騒擾の年だった。芸能界では松田聖子神田正輝と“聖輝の結婚”をし、夏目雅子白血病により、27歳で命を落とした。そんな中、次のトップスターが確かに誕生していたのである。

 翌年、中山は日テレ「セーラー服反逆同盟」、フジ「な・ま・い・き盛り」に主演し、シングル「ツイてるねノッてるね」がヒットするなど、さらに飛躍を遂げた。その年を最後に、岡嶋氏は中山の担当を外れる。そしてその後、他の芸能事務所に移籍した。

「その後は一切、連絡を取っていません。違う事務所のタレントに連絡を取るのは、元マネージャーとは言え、ご法度ですから」

 以来、30年余り経った今年の12月6日。岡嶋氏は彼女の最期をニュースで知った。

「茫然自失でした。今、実は私の育てたタレントたちが出る映画を準備していて、それに彼女にも出てもらいたいと思っていた。声がけをしようと思っていた、ちょうどそんな矢先の出来事でした」

 今思い起こすのは、中山のこんな姿だという。

「ある時、難病の子を持つ親が事務所に手紙を送ってきたことがありました。美穂がサイン色紙を送ってくれたら、闘病を頑張れるというものです。それを見て美穂はすぐに“頑張ってね”とメッセージ入りの色紙を送りました。間違いなく当時のトップアイドルでしたし、ファンを大切にする子だった。それにしても54歳……まだ早すぎますよ」