TABACO ROAD

サザン情報を中心につづる

YAZAWA 矢沢永吉 コンサート会場で目撃した衝撃的な光景

そこは単なる娯楽の場ではなく「信仰の現場」だった。

写真=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ
矢沢永吉、「Fifty Five Way」ツアーを5公演完売でキックオフ(2024年12月15日)

 

ある対象を熱狂的に推す人たちは、時にその対象を「神」と呼ぶ。では、彼らは神を見た時、どんな行動をとるのか。1994年7月に刊行された同名書籍を新装復刊した、ナンシー関信仰の現場』(星海社新書)より、「矢沢永吉コンサート」にまつわる章を紹介する

 

何かを盲目的に信じている人にはスキがある。自分の状態が見えていないからだ。しかし、その信じる人たちの多くは、日常生活において、そのスキをさらけ出すことを自己抑制し、バランスを保っている。

だが、自己抑制のタガを外してしまう時と場所がある。それは、同じものを信じる“同志”が一堂に会する場所に来た時だろう。全員が同じスキを持っているという安心感が、彼らを無防備にさせる。日常生活では意識的に保とうとしなければ「傾いている」と世間から非難される彼らのバランスも、その場ではその「傾いたまま」の状態で「正」であるという解放感。肩の荷をおろしたように無防備に解放されるのである。

こういった「お楽しみのところ」に、大変恐縮ではあるが、私が潜入させていただく、というのが主旨である。そこには日常生活とは別のパラダイムが存在するはずである、という予測のもと、彼らの信仰の現場の喜怒哀楽、悲喜こもごもをお伝えできたら幸いと思っている。

さて、そんなこんなの記念すべき第1回目の現場は、「矢沢永吉のコンサート会場」だ。これは、しょっぱなにふさわしい大ネタであるとともに、主旨を理解していただくのにも非常にわかりやすい物件である。当然の選択、ワンアンドオンリーだ。

 

ホールの周辺に数台のパトカー

矢沢永吉を信じる者たちが心のタガを外して集う現場。それも、今回私が潜入したのはごていねいにも山梨県民文化ホールでのコンサートだ。何がごていねいなんだかわからないが。

私は天皇が死んだ時も戦争が始まった時も、家の中で消しゴムを彫っていた人間である。3日や4日、一歩も外へ出ないことが珍しくない人間である。そんな私が「あずさ23号」なんて電車に乗って山梨へ行くということは、毎日電車に乗ることが当たり前の生活をしている人には考え及ばないほどの大事である。

私自身、一生のうちで「あずさ○号」と名乗る電車に乗ることなどよもやあるまい、とさえ思っていた。しかし、「山梨県民文化ホール・矢沢永吉コンサート」は、そんな私をも駆りたてる何かに満ちていた。そこには、矢沢と矢沢を信じる人々が私を待っているはずだ。

東京駅から1時間半で甲府駅に到着。時間は5時半、もう現場では開場が始まる頃だ。私たち(私と担当編集者)は駅前からタクシーに乗り県民文化ホールを目指した。

大通りからはずれた住宅街の中にあるホールが見え始めた瞬間、私は1時間半の長旅の疲れもふっ飛んだような気がした。何故ならホールの周辺に数台のパトカーがいるのである。来たかいがあった。タクシーから降りてみて分かったのだが、別に何のもめごともないのにパトカーはとりあえずいたのである。赤い回転灯をくるくると回しながら。


「気合いの入った」人たちの様相

それはまるで、矢沢永吉のコンサート会場にはパトカーがよく似合う、という様式美を体現するためにそこに存在しているかのようである。野音のキャロル解散コンサートの熱が時を超えてよみがえるようだ。

山梨県民文化ホールは建物の中に施設全体が組み込まれているので、開場を建物の中に入って待つことができるようになっている。しかし、もう開場時間だというのに建物の外にたくさんの人が。その多くは、数人で揃いの制服を着ていたり、祭りばんてんのようなものを着ていたりする、いわゆる「気合いの入った」人たちである。

ま、現在の矢沢のコンサートの客というのは、半分以上7割がたごく普通の人なんだけど。しかし、あの子たちはその気合いのあまり「ロビーで並んで待ってなんかいられねぇよ」という「祭りの前」状態なのであろう。「気合い」と「待ち焦がれる気持ち」が正比例することは否定できない。

謎のチラシに書かれていたこと

建物の入口を入ろうとする。矢沢ルック(ストレートなシルエットの上着にタックのたくさん入ったパンツ、中は白のタンクトップか素肌、といった最近の永ちゃんの定番ルックをコピーしている)の若者が配っているチラシを見て、こりゃまた驚いた。

それはよくあるイベンターからの他アーチストのライブのお知らせなどではなく、「矢沢永吉御一行様」にむけてのメッセージがつづられたチラシなのであった。

矢沢永吉を通じてめぐり逢った男達のネットワーク」という同志のグループが、自主的につくって配っているというこのチラシには、そのグループの中の4名の人が、矢沢および今回の山梨公演に対する思いを語っている。

「大歓迎! BIG BEAT御一行様」(BIG BEATはこの年のツアー名)「ようこそ! 山梨県民文化ホールへ」「40本目御苦労様です」といった、直接的な永ちゃんへのメッセージ。

全文を読んでみると、「永ちゃん、今年も山梨へ来てくれてありがとう」という矢沢へのメッセージと「永ちゃんにうまい酒を飲んでもらおうぜ、みんな!」というファンにむけてのハッパ、この2つが大きな柱となっている。私はこんなチラシを見たことがない。

矢沢へのメッセージを客に配ることによって、その数人の同志のメッセージを全観客からのそれにしてしまうというメカニズムが読みとれる。

また、入場の際に主催者及びコンサートスタッフ側から配られた「矢沢のLIVEを最高にするためのお願い」という、会場内での注意事項が記されたチラシもまた、私が初めて見るスタイルのものであった。

注意・禁止事項はありきたりであるが(でも旗やのぼりの持ち込み禁止項目アリ)、最後に「次回からもこの地区でコンサートが開催できますようにご協力下さい」の一文がある。

また「矢沢永吉の権利が守られるためにも、矢沢永吉のポリシーに反する海賊商品は絶対に買わないようご協力をお願いします」というのも書いてある。

矢沢至上主義とでも言いたくなるようなこれらのレトリックは、当然レトリックだけではなく「信仰」の行動にも表れる。「いいコンサートにしたい」のは自分たちが客としていいコンサートを観たいという願望以上に、矢沢さんに気持ちよく帰っていただきたい、ということなのである。

永ちゃんがライブ中のMCで「ホント、今日はサイコー」と言った時の客席の喜びようはすごかった。私はそこに「ああ、矢沢さんが喜んでくれて良かった」という安堵感があることを感じた。

 

タオル投げは絶対練習している

噂には聞いて知っていたが、矢沢永吉とあのタオルの関係は一体何なのだろう。とにかくタオルである。タオル売り場は長蛇の列。もう、タオル持ってなきゃ何も始まらないという感じだ。

最初、誰もかれもまるで儀礼のようにタオルを肩に掛けている(矢沢タオルは、首にかけるのではない。左右どちらかの肩に背負うようにダラリと掛けるのが正式)ファンを見た時、生の矢沢を観ることができない間、矢沢の代りとなる御神体なのかと思えた。

実際に部屋の壁にタオルを飾り、タオルに矢沢を見て暮らしている信者もいるだろう。しかし、今日のこの現場ではタオルは更なる役割を果たす。「止まらないHa~Ha」という曲が代表的であるが、曲の決まった部分でそれぞれのタオルを頭上に放り投げるという儀式があるのだ。

私は一階最後列で観ていたが、それは壮観である。大きなバスタオルを真上に高く放るのは難しい。絶対練習している。そして、いかに高くきれいに放るかをステージ上の矢沢に見せることが、同時に自分の信仰心の深さを示すことにもなるのである。矢沢に会えなかった間ぶんの信仰心をしみこませたタオルを矢沢の目前で高く放る時、それがタオルから矢沢に帰されると信じているのかもしれない。

単なる娯楽ではなく信仰の現場

ステージ上の矢沢は煽動的なMCをするわけでもなく、あくまでも音楽を演っているだけだ。しかし気づいたのだが、矢沢は何度も舞台からソデへ姿を消す。曲の間奏で消えて2コーラス目が始まる瞬間に戻っては歌い出すというシーンも数回あった。

矢沢本人は無意識なのだろうが、結果的にこれは無言の煽動だ。「ステージに現れる」というのは、いわば「御降誕」である。信ずる者たちにとっては、最も崇高でありがたい儀式を何度も見せているのである。もう会場は大変だ。

詳しくは知らないが、かなり規模の大きいファン組織で、全国に支部を持つ「永心会」というのがある、というのを私は以前ある雑誌で知った。この日も揃いの制服で気合いが入っていたが、「永心会」はコンサートが終わったあと「反省会」をするらしい。彼らにとって矢沢のコンサートは単なる娯楽ではないことは明白だ。やっぱりそれは「信仰の現場」と呼ぶべき場なのだろう。

「ルイジアンナ」や「ウイスキー・コーク」も聴けて、タオルも3枚買って、満足して帰ってきた私であった。

by:消しゴム版画家・コラムニスト
ナンシー関(なんしー・せき)

 

 

引用記事:

YAZAWAタオルにしみこんでいるのは汗だけではなかった…矢沢永吉のコンサート会場で目撃した衝撃的な光景 そこは単なる娯楽の場ではなく「信仰の現場」だった | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)