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マクドナルドの「AI広告」が炎上!

「その違和感はプレコックス感」だそう・・・

 

 

2024年8月17日、日本マクドナルドSNS上にアップしたマックフライポテトCMが炎上した。動画内に登場するAI美女が「気持ち悪い」「買う気がしなくなった」などとSNSで酷評されたのだ。

 フランス哲学者の福田肇氏は「AI美女が気持ち悪いのは、美女が人と似すぎているためだ」と喝破する。どういうことかーー。

マクドナルドCMのAI美女が炎上

 日本マクドナルドは、2024年8月17日、公式X(旧Twitter)に、生成AIを使用して制作されたマックフライポテトのプロモーション動画をアップした。すると、その動画に対して、消費者から「気持ちが悪い」「購買意欲を失った」などの辛辣な批判が殺到した。

 この動画には、AIで生成された美少女が数人登場する。表情にしても、所作にしても、極めて精緻に作成されていて、そう言われなければAIによって仮構された像であるとはわからない。

 しかし、たしかにどことなく〝違和感〟を覚える。この〝違和感〟は、「指が6本ある」(実際に6本の指の女の子も登場するが、そう指摘されて初めてわかるレベルである)とか、動き方にロボットのようなぎこちなさがあるとかいった、可視的な不自然さに起因するのではない。あるいは、ある種の昆虫や怪物に対する嫌悪感や恐怖感のように、擬人化の困難さに由来するのではない。反対に、それは、生身の人間に限りなく近いがゆえにこそ視聴者にあたえる逆説的な〝居心地の悪さ〟である。その正体はいったい何なのだろうか。

ロボットにおける「不気味の谷現象」

 ロボット工学者森政弘(1927〜)は、1970年、「不気味の谷現象」なる心理を指摘した。それは、人工的な人間の像(実物、映像を問わない)をヒトが眺めるとき、写実度が精密化していく高度なある一点において、違和感や嫌悪感、薄気味悪さなどの感情が、観察者にとつぜん惹起されるという、奇妙な現象である。

 この負の心理効果は、何に起因するのか。「分離困難仮説」は、人間はキメラのような経験値にない合体物にたいして本能的に忌避反応を示す、と考える。たとえば、被験者は、単体ではおいしそうなさまざまな種のフルーツを人工的にくっつけた画像を見ても食欲をそそられない。単体ではかわいいと思える動物の画像に、やはり単体では好感度の高い他の動物のパーツを接木した画像をみると、被験者はむしろ嫌悪感を覚える。また、ヒューマノイドロボットやAIが描出する人物の頭部パーツの顔の細かい凹凸が人間と異なることが不気味さを演出する原因であると考える説もある。

 しかし、これらの説は、残念ながら正鵠を射ていない。マクドナルドのPR動画で登場する美少女たちは、雑多なキメラどころか、このうえない精密度で生成され、かぎりなく実物に近い。したがって、「分離困難仮説」はこの例に適用できない。では、顔の造形の微小な異同が観察者に負の印象をあたえるとする説はどうか。もしそうであるなら、解像度の低いカメラで撮影された人物はみな違和感を惹き起こすはずだが、古い映画を鑑賞しても、私たちがそのような気持ちを抱くことはない。

 問題はふりだしにもどる。キメラ的異質性や、顔貌の凹凸の不自然さという外観をいくらさぐっても、AIが生成する画像の高度なリアリズムこそがもたらすある種の〝ホラー〟の原因を、私たちはそこに見出すことができない。

AI美女に感じる違和感は、精神医学における「プレコックス感」ではないか

 精神医学に、「プレコックス・ゲフュール」(あるいは「プレコックス感」)という用語がある。これは、精神科医が、統合失調症(幻聴や幻覚、妄想などを主症状とする精神疾患)の患者を前にして直感的にいだくある種のいいようのない独特な感情である。精神科医の主観的な印象であり、正確に言語化するのはむずかしいが、あえて言えば、「どことなく感じる違和感」「何か変だ」「まがいものが発する雰囲気」としか記述しようがない、正体不明な印象である。「安っぽい金物の仏像を見ているような感じ」と形容する医師もいる。

 診察室で目の前にいるのは確かに本物の人間であるのだが、どこか漂ってくるなんとも言いがたい〝ニセモノくささ〟。それがプレコックス感である。AIが生み出す虚構の人物が醸し出す雰囲気と似てはいまいか。

 プレコックス感はいったいどこから来るのか。

 私は、ことばと論理で編まれたひとつの世界を他者と共有しているという暗黙の前提のもとに、他者と接している。だからこそ––––ジャック・ラカン(フランスの精神分析医・思想家1901-1981)が言うように––––、「君はぼくの妻だ」と相手に言うことが、「ぼくは君の夫だ」という言外の意味を、そう言った本人自身に投げ返すことになるし、相手が「1+1=10」と私に教えるなら、それは[十進法の公理系では]誤りか嘘だとすぐ気づくのだ。喩えるなら、そのことは、私が将棋盤上に駒を置くやいなや、そのメッセージはすぐさま相手が置く駒の種類や位置の有限な可能性をおのずから決定し、その可能性はまた、それらに対抗する私の駒の選択と置き方のパターンを送り返してくることと似ている。私は、一手を打ったときに、対戦者からすでに私の次の打つ手を教えられている。ラカンは、こうした事態を「主体は自分のメッセージを他者からひっくり返った形で受け取っている」と表している。

 私と他者が、ことばと論理で編まれたひとつの世界を共有しているという暗黙の前提–––間主体性(intersubjectivité)とよばれる–––は、しかし、統合失調症の患者との間には成立しない。患者は、たとえ精神科医母語と同じ母語を使用して語っていても、まったく異なる論理の世界の住人なのである。

 つまり、この暗黙の前提の欠如、いいかれば精神科医と同じ理性にしたがっていると期待させるヒトとしての外観を備えていながら、まったく別の論理の世界に生きているという、患者がかもしだす一種の齟齬感こそが、プレコックス・ゲフュールの正体ではないか。だから、犬や猫が、人間の理性とはまったくちがう行動原理で生きていても、彼らに人間の理性と同じ理性に基づいた行動を期待しないので、精神科医は、自分のペットにこういう感覚をそもそも感じない。

〝未知なる他者〟にたいするなんとも言いがたい恐怖の念

  こう考えると、「不気味の谷現象」が、なぜ、擬人化の度合いが相対的に低いCG合成の登場人物やデフォルメされたアニメのキャラクターに起こらず、「写実度が精密化していく高度なある一点」で生起するのか説明がつく。実在の人間と紛うほどリアルに生成された像が私をじっと凝視してくるからこそ、当然期待される間主体性が私とのあいだに成立していない不気味さが強調されるのである。

 東野圭吾の原作を映画化した作品『人魚の住む家』(2018年)には同様のモチーフがみられる。IT機器メーカーのロジテクス社の社長・播磨和昌(西島秀俊)と妻・播磨薫子(篠原涼子)の間には、瑞穂(稲垣来泉)と生人(斎藤汰鷹)という二人の子どもがいる。ある日、瑞穂はプールで溺れ、脳死状態と診断された。薫子は、その診断を受け入れず、瑞穂の意識がいつかもどることを信じて自宅での延命治療を選択する。

 リハビリを行わないままでは筋肉が衰えてしまう。そこで和昌は、ロジテクス社の社員である星野に人工神経接続技術を使い、外部から刺激を与えて瑞穂の手足を動かすことを可能にするような装置の開発を依頼する。星野は研究に励み、脳に電気的な信号を加えて手足を動かせることに成功する。こうして薫子は、意識のないまま四肢だけを人工的に動かす瑞穂の誕生日に子どもたちを招待し、彼女を車椅子に載せて散歩に連れ出すようになり、果ては生人の小学校にも自分とともに同行させるようになった。薫子の行動は近所の人たちの顰蹙(ひんしゅく)を買い、生人は学校でいじめられるようになってしまう……。

 意識の回復がないまま電気信号で手足を動かし、清明な意識をもつ人と日常と同じ日常を営むよう強いられている瑞穂。彼女にたいする周囲の当惑や反撥、そして嫌悪感は、「不気味の谷現象」やプレコックス・ゲフュールと同質のものだ。つまり、まるで生きているようにふるまいながら、間主体性が成立しない〝未知なる他者〟にたいするなんとも言いがたい恐怖の念だ。

AIによって、人間の本質が明らかになるかもしれない

「AIは人間を超えるか」という粗雑な議論に、私はあまり関心がない。何をもって「超える」というのかわからないのに、優劣の比較をするのはおかしい。

むしろ、AIが生成する巧妙なヴァーチャル・パーソナリティが——それが巧妙であるがゆえになおさら——人間に拒絶反応を催させること、そしてその拒絶反応が、人間存在をかかるものとして措定する本質を、ひるがえって明らかにしてくるかもしれないということに、私はひそかに期待をしているのである。

 

引用記事:

「気持ち悪い」「買う気しない」…マクドナルドの「AI広告」が炎上!フランス哲学者「その違和感はプレコックス感」不気味の谷現象 (みんかぶプレミアム) (smartnews.com)